13年11月11日 その5
後ろ髪を引かれつつ桟橋へ
こう見ると美しい船だねー
高島の未来はこの船にかかってるのかも知れないな
さあ、いよいよ見えてくるよ
端島(通称・軍艦島) 面積:0/063 km 海岸線長:1.2 km 最高標高47.7m 端島は当初、南北約320m、東西約120mほどの小さな島だった が、人口の増加に伴い、6度に及ぶ拡張工事の末、現在の規模となる 閉山時の地勢の概略がこれ 追々説明するけど、とんでもない町だよ いや、町ではなく街のほうが相応しいかな
端島が軍艦島と呼ばれるようになったのは大正初期 1916年に大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道し 1921年には長崎日日新聞が帝國海軍の"戦艦土佐"に似ているとして軍艦島と呼んでいる そのちょっと前、明治後期の島の様子がこんな感じ で、土佐がこれ 土佐は確か自沈したんだよなあ 未完のまま 軍艦島も軍艦土佐も切ない終わり方をした点でよく似てる
この島が悲劇的に語られるのには2つの理由がある 1つは僅か80年の間に栄枯盛衰があったこと もう1つは強制労働の場であったこと そのへんについて語ると面倒なことになりそうなので割愛する 興味がある人は自分で調べてね
1810年 端島で石炭を発見
1890年 三菱が旧鍋島藩主より土地と鉱業権を買収
1941年 出炭量が最盛期を迎える(41万d)
1960年 人口が最盛期を迎える(5267人) ※
1962年 原油の輸入自由化
1974年 閉山
※ 人口密度は83600人/kmと世界一で東京特別区の実に9倍
ちょっとアップにしてみよう いちばん右に見えるのが、ちどり荘という教員住宅 その左にあるのが端島病院(69号棟) 見えないけど手前にはテニスコートがあるんだって さらにその左にあるのが端島小中学校(70号棟)で いちばん左に見えるのが鉱員住宅(69号棟) 屋上には幼稚園があって、中庭には児童公園(65号棟)があったとか 鉱員住宅の手間に見えるのが端島小中学校の体育館(71号棟) どう、すごいでしょ 画面の一部を切り取っただけでこれだけのものがある 残念だったのは当日は時化で島の周囲をクルーズできなかったこと 逆サイドは一切見れなかったんだよなあ それが無念で無念で
画面中央の一際大きな建物が高級職員住宅(3号棟) なんと内湯があったそうだ この他で内湯があったのは3棟で、鉱長社宅(5号棟)、職員クラブ(7号棟)、清風荘(25号棟) 職員クラブと清風荘は来島者の宿泊施設を兼ねていたそうだ 清風荘にはスナックバー「白水苑」が併設されていたとか 尚、中央に見える小さな突起のようなものが端島神社(1号棟)の祠 かつてあった拝殿は朽ち果て、それだけにこの祠が神々しく見える 島内には泉福寺(23号棟)というお寺もあり、すべての宗派を扱っていたそうだ ここには人間の生活に必要な、ほとんど全てのものがあったわけだ なかったものはふたつ 火葬場とお墓
では、島内にあった上記以外の施設を列記する パチンコ屋(48号棟)、雀荘(48号棟)、ダンスホール(7号棟/兼用)、ビリヤード場(17号棟) 映画館(50号棟)、弓道場(19号棟)、武道場(71号棟)、理容室(31/65号棟)、簡易遊園地(17号棟) 郵便局(31号棟)、警察派出所(21号棟)、気象観測所(6号棟)、屋上菜園(14号棟)、体育館(51号棟) テナント(51号棟他多数/飲み屋・酒屋・電気屋・質屋・書店・囲碁将棋場・雑貨屋等々) (クリックで別窓&拡大) 凄いよねー 中でも映画館は400席もある大規模なもので、洋画は全国に先駆けて放映されたそうだ もっとも端島はテレビの普及率がほぼ100%だったために閑古鳥が泣いてたとか これらはみな、労働意欲を鼓舞するために必要だったもの 風俗店もあった、との情報もある 凄い、ではなく、やはり切ない
いよいよ接岸
揺れてるお
無理なんじゃないの?ってくらい揺れてるお
でも上陸を強行?してもらって本当によかった
ガイドさんのお話が素晴らしかったもん
右の建物が端島小中学校(70号棟)で左の建物が高級職員住宅(3号棟) さっき説明したね 中央に点在するのが石炭を輸送するベルトコンベアーの痕跡
そしてここが、軍艦島の象徴とも言える場所 赤レンガがこの島を統制した総合事務所の倉庫 高潮の日は全てが白で覆われ、その色は数日経っても回復しなかったと云われてる 内部には鉱員専用の巨大な共同浴場があり、浴槽はいつも真っ黒だったそうだ
第二竪坑桟橋階段 鉱員はこの階段を下って第二竪坑の入口へと降りて行った その深さ何と606m 第二竪坑底から伸びた第10片坑道の最深部は1010mにも及んだという もちろん安全など担保されるはずもなく、こんなもので坑底まで降りたそうだ 壁もなく、灯りもなく、暗闇の中を分速480mで降りていく いや、落ちていく 三ツ瀬に採掘の手を伸ばしたときなど、まず深さ348mの第四竪坑底に降り 次に人員運搬車に乗って2345mもの坑道を進み 更に斜坑を400m近く降りて"切羽"と呼ばれる採掘現場に到達したという そこには過酷な労働が待っていた 気温30℃以上、湿度95%以上 労働時間は15時間にも及んだ 海水の流入やガスの発生、酸素の不足といった死の恐怖と常に戦いながら
自ずと、戻って来れない人もいた たくさんいた 正確な記録は(もちろん)残っていない 強制連行された諸外国人を含め、数百人から数千人 生きて再びこの階段を踏み締めることができなかった 脱走者は見せしめに拷問に遭ったとも云われている 階段が黒ずんでいるのが分かるでしょう あれは、生きて戻り、明日を生きる資格を与えられた人々の足跡 ブラックダイヤモンド 黒いダイヤの痕跡
なんか鬱になるよね(笑) 戦後日本の復興の陰でどれほどの尊い命が奪われたのか その上に胡坐をかき、およそ健全とは言えない社会を構築・運営している自分たちが愚かしくすら思える おっと、らしくもない空気にしちまったぜ 中央の穴は「ぼた」を運搬したベルトコンベアの跡 ぼたとは石炭採掘の際に生じる捨て石で、つまり"要らない石" 当初は内海に投棄されたものの、採掘量が減るに連れてぼたの量も増大 ついに住宅棟である31号棟を貫通させ、外海にまで投棄することになったそうだ 端島が石炭を掘ることに特化した島であることがよく分かるエピソード
端島が閉山したのは1974年1月 同年4月に高島端島航路が閉鎖され全住民の離島が完了 その後、元住民がこの島を訪れることが幾度があったが 参加者の多くが撮影したり持ち帰ったのがこれらの雑草 当時この島には自生する植物が存在しなかったから それほど過酷な環境だったということ
鍛冶工場 初期は人力中心だったからね
その後ろにあるのが製缶場 鍛冶工場と同様に石炭の採掘に必要な機材を製造していた
更にその後ろにあるのが仕上工場の一部 これを製缶場とするサイトも多いけど、間違い 製缶場は平屋で、仕上工場は2階建てだから
右が30号棟で左が31号棟 真ん中に僅かに顔を覗かせているのが25号棟 30号棟は鉱員社宅(下請飯場)で、1916年完成の鉄筋7階建て 我が国初の鉄筋RC構造の集合住宅 25号棟は職員社宅で、前述の清風荘と白水苑が併設されていた 31号棟は鉱員社宅で、共同浴場や郵便局、理容室があった
住宅は決して広くはないものの、電化製品や衣類、食品は潤沢で 家族には何ら不自由のない生活が与えられていたそうだ 以下、水の歴史をまとめる
1891年 蒸留水機を設置し各戸に配水
1932年 給水船三島丸進水
1957年 海底水道完成 ※給水船は存続
1967年 為石貯水池完成
端島で水が安定供給されるようになったのが1957年 海底に水道管を敷設して水源地から直接供給するというシステムが完成したため 東京市では1963年に水道の普及率が80%を超えているが、これは例外 当時の日本はまだまだ水の安定供給が難しかった では次に電気の歴史を見てみよう
1900年 直流発電機を電灯用に設置
1909年 島内の住宅各戸にも電灯を設置
1915年 高島に大型の火力発電機を設置
1917年 高島から端島へ送電を開始
住宅に明かりが灯ったのが1909年ということだが 東京市内で電灯が広く普及したのが1912年だから、それより3年も早いことになる ただ、そのことが端島にとって諸刃の剣でもあった 火災 狭い土地、強い風、そして石炭 一度火災が起きるとあっという間に延焼 端島の歴史は、火災との戦いの歴史でもあったそうだ
肥前端島灯台が設置されたのは端島閉山後 それ以前は眠らぬ島だったため灯台が必要なかった 画像の灯台は2代目で1998年設置(初代は1975年) ソーラーバッテリーで稼動中 その右に見えるのが貯水槽(清水タンク) 戦時下では高射砲や対空機関砲が設置されたとか
とまあ、どのエピソードも優秀なガイドにより情感的に描かれ 様々に思いを巡らす豊かな時間を過ごしたわけだが 見学が終わればこんなもの 写真を撮り合うわけでもなく、歴史を語り合うわけでもなく 背後の廃墟になどまるで興味がなかったかのように、すたすたとフェリーへと向かう 最近の日本人ってドライなんだね
そうそう、ガイドさんが言ってたけど 中国人や韓国人の観光客は「同胞の苦難」を知り嗚咽するんだそうだ それはそれで気持ち悪いやりすぎだけど あの人たちのようにダッシュでフェリーに戻るような人間にはなりたくないなあ
はいおれが最後〜
足痛いんだもん
で、その平和ボケしたお年寄りご一行を伊王島で蹴落とし
のんびりまったりキャビンで過ごすことしばし
長崎港の元船桟橋に帰着
このツアーでよかったなあ
他のツアーに参加してないから比較のしようがないけど
本当にいい時間を過ごした
うーさぶ
足の痛みもピーク
腰痛はレギュラーだし
まだまだ戦える時間ではあるけど
今日はこのへんで勘弁したる
1200A系 全長:11.70m 全幅:2.25m 全高:3.83m(パンタ収納時) 自重:15.8t 定員:72名 製造:アルナ車両 導入:1982年
昼間乗った車両じゃん おれ、こういうこと多いなー
で、築町(駅)で降りて
ものすごい勢いで乗り換える
この車体、ずいぶん年季が入ってるな 電装は新しいけど
でも、もうどうでもよくなってきた
ほんとに疲れてるんだもん 足も痛いし
211系 全長:11.00m 全幅:2.27m 全高:3.60m(パンタ収納時) 自重:15.8t 定員:76名 製造:日本車輌 導入:1951年
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